2007年2月25日 (日)

幽閉者<テロリスト>

[2007年・監督/足立正生■おすすめ度★★ 観ておくべき度★★ 思い入れ度★★★]

日本赤軍と行動を共にした足立正生が「おつとめ」を終えた後、最初に撮った作品。
じっさいたいへんな経験を積んできたこの監督が、いったいどんな物を作るのか、という興味があったのだが、果たして期待どおりであった。

これは、とんでもない低予算で作られた、足立正生の自主映画だ。

足立監督にとって映画とは、観客を楽しませるエンタテインメントなぞではなく、自らの思想を語る手段に過ぎないのだろう。そういう映画表現もあっても別にいい、と思う。
彼は『映画を撮ること』こそが革命を目指す運動なのだろう。

稚拙な浅い考えの文だとはわかっているけれど、あくまでも個人的な見解をあえて書くが、正直な話、『今更世界同時革命??』という感は否めない。
世界---いや、少なくともこの日本という國では、革命などという言語は滅びてしまった。
一億総中流化のとおり、生活にたいして不満を持たなければ現体制に反発もする必要は無いからだ。
日本政府は戦後60年をかけ、そうやって従順な國民を飼育してきた。
それを、今更『悪いこと』とは言い切れない。それを甘んじて享受している自分のような市民にとっては、そんな立場なのではないだろうか。
『特に不満の無い暮らし』を与えてくれるものこそが『正しい政府』なのだ。

ここで描かれている怒り・思想は、いまだに70年どころか、60年代さえも終えられていないだけなのではないだろうか。そして、主人公の抱える願望は、あくまでも青臭いナルシシズムに過ぎないのではないのか。
少なくとも、80年代を通過してきた目からは、この考えはシニカルに斜見してしまう。

オウムで再び突きつけられた疑問だが、『革命実現のためには、市民の犠牲はやむなし』とは、はたして正義なのか。それは、ただ己の狭い理想の世界を築くためだけであり、より多くの人々がそれを望んでいないとしても?
この映画は足立監督の心象風景を表わしたものだろうけど、たとえばきっかけになった事件の犠牲者に対しての感情が決定的に欠如している。あえて自覚的にそうなのかもしれないが、そこにいまだ革命思想にしがみつく監督のアイデンティティーが垣間見えないだろうか?

いかにその革命の思想が気高いものであっても、「笛吹けど誰も踊らず」なのだ。
実は足立監督は、それをもう悟っているのかもしれないけれど。

けれどそんな思想啓蒙映画も、主演の田口トモロヲのM男っぷりのほうがあまりにも強烈過ぎて、監督の伝えたかった思想なぞつい吹き飛んでしまう。
田口トモロヲは当代随一のマゾ俳優だと密かに思っているのだけれど、流石は「鉄男」以来ひたすら縛られ殴られハイヒールで踏みつけられ続けてきただけのことはある。僕は映画館で思わず『トモロヲさん、あんたヤり過ぎだよ』と心で呟いてしまった。
たぶん一般的にはNHK「プロジェクトX」でのナレーションの印象が強いのだろうけれど、実際のトモロヲさんって『ばちかぶり』というパンクバンドを率いていたりしたとってもアナーキーなお方。

テロリスト足立も、今回はパンキッシュなアナーキスト・田口トモロヲには一敗、土をつけられてしまった…これは、そんな一本かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月28日 (木)

フィッツカラルド

[1982年・監督/ヴェルナー・ヘルツォーク■おすすめ度★★★★★ 観ておくべき度★★★★ 思い入れ度★★★★★]

ひと口にトンデモと言うが、トンデモ映画には「いいトンデモ映画」と「わるいトンデモ映画」がある。この「フィッツカラルド」は前者である。

船頭多くして、ではなく「船頭フィッツカラルドにして」船が山を越える映画。

凄いのは、これが特撮ではなく、本当に船を山越えさせたのだ。しかも人力で。

これはもはやドキュメンタリーだ。

物語の当初は、ちょっとイカれた主人公・フィッツカラルドのちょっと無茶な夢の実現のために奔走する姿を追っている。だが、その実現の手段としてトンでもないことを思いついた瞬間から、映画はこの男の夢想に引きずられていく。

アマゾンの奥地で、現地のインディオたちを騙し使って船を山越えさせようというのだ。

このあたりから映画そのものも妙に狂気じみてくる。ナンだかよく分からないオーラがスクリーンから発せられてくる。
いつしか物語の中のフィッツカラルド自身の「船で何をするのか」という目的も、もっと外枠にある映画を撮るという目的さえもどこかに放り投げられ、ただひたすらに「船を人力だけで山越えさせる」ということが総てとなっていく。

船を運ぶのはあくまで手段であったはずだ。だがその手段であったものが目的そのものにすり替わってしまったのだ。

先に「船頭フィッツカラルドにして」と書いたが、ここでの本当の船頭はヘルツォーク監督自身だ。実際に船を運ぶにあたり、劇中と同じく現地のインディオたちに作業をさせたと聞く。こうして、どこまでが劇でどこからが事実なのかがあいまいになってくる。

これは映画が映画としての枠組みを超越した「何か」を掴んだ瞬間である。

劇中のフィッツカラルドの夢と、監督・ヘルツォークの夢が融合合致し、実現する過程をフィルムは捉えたのだ。それも、極めて近視眼的に。
これは比類なき映画なのだ。

男とは挑戦する生き物である。それに挑み、フィッツカラルドはより困難なものに打ち克ったのだ。そんな「男の映画」として観てもこの作品は優れた存在の光を放つ。
そんな、なんだかよくわからない熱気に観ている側は圧倒させられながら映画は終局へと突き進んでいく。その結末は当初フィッツカラルドの夢想していたものとは違うものだが、もはやそれを誰一人として咎めたりはしないだろう。

我々観客は見たのだ。ひとりの男、フィッツカラルド=ヘルツォークのあまりにも無謀な挑戦と、その困難を克服した充足を。

映画のフィルムというものが、映像だけではなくそこにあった熱気や狂気などの形の無い存在までも映し撮ってしまうものだというのを見せ付けてくれる一作。決してキレイな、バランスのいい作品ではない。むしろイビツだが、これは大傑作だとボクは思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月27日 (日)

鉄塔武蔵野線

[1997年・監督/長尾直樹■おすすめ度★★★★★ 観ておくべき度★★★★★ 思い入れ度★★★★★]

鉄塔武蔵野線 夏休み、誰でもやった自由研究。

そんな憧憬に包まれた、TVドラマ「電車男」で一気にブレイクした伊藤淳史くんがまだ『ちびのりだー』の面影も残す子供だった頃の一本だ。

武蔵野線、といわれる送電線の鉄塔を辿ってふたりの少年が行く。川の源流を目指すが如く。
なぜ? それは本人たちにもわからない。

'あそび'にはルールはあっても目的など無い。子供にとっては行為そのものが目的であり、そこに意味や理由など無いのだ。

だからひたすら自分たちの決めたその'あそび'のルールに従って進む。進み続ける。ルールどおりの儀式を行う。のどが渇いたらジュースを飲む。ひたすら飲む。子供たちの行動は原始的で単純でもある。

自分たちにも、どこがゴールなのかわからない。もしゴールしても、その先に何があるのかも知らない。

けれど大抵の'あそび'は日が暮れたら終わりになる。「カラスが鳴くから帰る」のだ。
だが、この男の子たちにとって、この'あそび'は日暮れになっても終わることがなく続く。

少年たちはそこで初めて気付くのだ。それが彼らにとっての、大いなる未知への旅なのだということを。これは、ひと夏の少年たちの冒険の物語。

夏休み、誰にも見せない、自分たちだけのひみつの自由研究。

たまには、ひぐらしの鳴くあの過ぎし夏の日を思い出しながら、この映画に浸ってみたい。

きっとあなたにとっても、大切な一本となるだろう。

鉄塔武蔵野線
B00009SF85
銀林みのる 長尾直樹 伊藤淳史
Amazonで詳しく見る
by G-Tools

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月24日 (木)

Ray/レイ

[2004年・監督/テイラー・ハックフォード ■おすすめ度★★★★ 観ておくべき度★★★ 思い入れ度★★]

Ray / レイ 盲目の天才ミュージシャン、レイ・チャールズの伝記映画。

劇中繰り返し使われる"crippled"という言葉がある。
最初は主人公のレイが視力を失ったとき。字幕では意訳されるがこれは『障害者』という意味であるが、おそらくもう少し蔑称的なニュアンスもあるのかもしれない。以降、話が進むごとに彼に投げかけられるキイ・ワードとなる。

じつはこのcrippledにはもうひとつのスラング的使い方があって、いわゆるジャンキー、薬物中毒者に対しても用いられる言葉。

本編において、crippledとは盲(障害者)であり、ジャンキーであるレイそのものを指すダブル・ミーニング・ワードなのだ。

そんなcrippledなレイが、いかにその二つのcrippledな自己に克っていったか、という物語。Rayとはそんな映画である。

Crippled ボクの持っているTシャツにこのCRIPPLEDという単語がデカデカと書かれているのがあって、あんまり意味もわからず着ていた。で、ある日パンキッシュな白人の若い男の子とすれ違ったとき「OH,YAH!! ハッハッハッハッハァ」と大笑いして通り過ぎて行かれてしまったけど、この図柄にはそんな毒が含まれていたわけだ。
そりゃ大笑いもするよなぁ…

今更云うまでも無いが、主演のジェイミー・フォックスはまさに名演。作品としても非常に良品である。昔だったら"文部省推薦"とか付いていたかもしれない。

伝記とはこういうものだ、という教科書的優秀作。ぜひ学校教材にして欲しい。

Ray / レイ
B000B4NFCU
テイラー・ハックフォード ジェームズ・L・ホワイト ジェイミー・フォックス
Amazonで詳しく見る
by G-Tools

| | コメント (0) | トラックバック (0)

祭りの準備

[1975年・監督/黒木和雄■おすすめ度★★★ 観ておくべき度★★★ 思い入れ度★]

祭りの準備 ニューマスター版 中島丈博の自伝的同名小説を原作にした作品。

こういった映画について自分が論評するのは、正直いってキツい。何故かというと、このテの映画がボクは苦手だからだ。
作品の一般的評価は高いし、傑作と云われている。監督の黒木和雄もボクにとって格別嫌いなわけではない。
けれど、ボクにはどうにも、この泥臭い、土俗的な雰囲気といったものがダメなのだ。地方感溢れる舞台。方言。さびれかけの漁村。濃厚な土着的人間関係。

つくる側からすれば、たしかにいつも都会的でスタイリッシュな映像ばかり映画館で観させられることには異議もあるだろう。日本にはそんな土地ばかりじゃあ無い。むしろ大半が、こんな開発からは取り残された地域のはず。それは承知してるのだが…

もはや『好き・嫌い』という問題なので、どうしようもない。たとえば同じATG映画の「海潮音」を観たときもこんな感情を抱いてしまった記憶がある。
べつに地方を題材にしたものがすべてダメかというと、そんなわけでも無いのだ。「サード」なんか好きな映画だし「遠雷」も許せる(べつに森下愛子の裸や石田えりの豊満な胸が見れるから、だけではない)。「津軽じょんがら節」も。柳町光男の「火まつり」もなんとか大丈夫だった。

たぶん、監督の捉え方、空気感に左右されるのだろう。

だから逆に、この「祭りの準備」はそういった土着感の空気をたっぷりとフィルムに焼き付けることに成功している、とも云えるだろう。嫌悪感をも抱かせるほどに。こんな土地なら、主人公が「ここから出たい」と思い続けていることも存分納得がいく。それはたとえ惚れていた女が自分のモノになって抱けても変えることのできない感情なわけだ。惚れた女の膣(なか)や母親の胎(なか)に安住するよりも、この場所にいる、ということを断ち切りたいのだ。それだけは激しく同意できる。

いいか悪いかは別にして、田舎から脱出したい症候群の若者には格好のアジテーションムービーであることは確か。ぜひそんな地方の高校の文化祭あたりで上映し、みんなを家出少年にして欲しい。
もっとも、これに上映許可を出すような柔軟な学校なら、べつに出て行きたいとは思わないかもね。

竹下景子の初々しいおっぱいが拝める、ということは特に付記しておこう。

黒木和雄の作品としては、他と比べていまひとつ力の入れ方が微妙に弱いような気がする。黒木本人がどれ程この企画に熱心かそうでなかったのか判らないが、どちらかと云うと職人監督に徹しているように感じる。それはやはり、この作品があくまでも中島丈博の人生だからだろう。

黒木は、黒木本人の人生や思想をどこかで投影したとき、面白いものを作るひとなんだと思う。

祭りの準備 ニューマスター版
B0000V4OJW
中島丈博 黒木和雄 江藤潤
Amazonで詳しく見る
by G-Tools

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月14日 (月)

人間の條件

[1959~1961年・監督/小林正樹■おすすめ度★★★★★ 観ておくべき度★★★★★ 思い入れ度★★★★★]
【第1部純愛篇・第2部激怒篇(1959年) 第3部望郷篇・第4部戦雲篇(1959年) 第5部死の脱出・第6部曠野の彷徨(1961年)※各2部ずつ封切り】

もし、日本の関わった大東亜戦争を体感できるものがあるとしたら、この映画を置いて他に無いだろう。

全上映時間、574分。(現行DVDによる。)およそ10時間にも及ぶこの6部作は、日本映画が最も力のあった時代が生んだ不滅の金字塔である。

物語は簡素だ。
『仲代演ずる主人公・梶(これほどの長尺の主人公なのに下の名が無い!!)が戦争の激化と共に満州・北方戦線に送られる。』
これだけである。いや、確かに細かいことを連ねるといろいろあるが、骨子はただこの一文に尽きる。

この映画が製作された当時、1959年といえば、まだ戦争が終わって15年も経ってはいなかった。製作者たちにも出征経験のある者も多かっただろう。だからこそ、舞台が戦地に変わってからの描写は迫真の一語である。

中でもボクが最もリアルさを感じたのが、戦線での最初の戦闘に遭遇するシーンだった。
よくあるような、勇ましく銃を放つ兵士なんてそこには一人もいない。塹壕に潜み、いつ撃たれるか、いつ爆撃されるか、という、すぐ隣りに死の暗渠が口を広げ待ち構えている極限の恐怖。戦場にいるのはヒーローなぞではなく、常に己れの意思とは無関係に放り込まれた市井の平凡な生身の人間なのだ。お国のためとか、そんな大儀名分なぞそこでは無意味だ。ただ、死にたくはないという実にシンプルな感情のみが全身を貫く。それを観客に突きつける。
戦闘シーンにおいて、これほど真に迫る映像を観させられたことは他に例がない。
このシーンを観るだけでもこの映画の価値は十二分にある。

おまけに、前線のトンでもなく広大なオープンセット。これほどの長尺をまったく飽きることなくグイグイと引っ張っていく説得力と緊張感。日本人として、必ず体験しておくべき映画だと思う。

そう、この映画を観る、ということそのものが『体験』なのだ。日本人なら、長い人生のうちの10時間は「人間の條件」に費やすべきなのだ。

かつてはオールナイトの定番で毎年どこかしらでは企画されていたこの「人間の條件」だったのだが、すべてを上映するにはあまりに長尺ゆえ、近年ではそれもめっきり減ってしまった。何せ休憩を含むと12時間にも及ぶ一大イベントである。自分も20代前半の頃、今は無き銀座松竹で観たが、たしか22時開始、終了が翌朝9時半だったと思う。これがオールナイトの初体験でもあった。

やはり年に一度くらいは一挙上映をしてほしい作品。それは、この作品を世に送り出した映画会社の義務でもある、と思う。
松竹さん、どうかお願い!

人間の條件DVD-BOX
B0000ABBUH
小林正樹 松山善三 稲垣公一
Amazonで詳しく見る
by G-Tools

DVDで観賞するときも、一気に通しで観てこそ、この映画のほんとうの素晴しさが実感できる。ぜひともそうして欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月11日 (金)

旅芸人の記録

[1975年・監督/テオ・アンゲロプロス■おすすめ度★★★ 観ておくべき度★★★★ 思い入れ度★★]

上映時間3時間52分。ほぼ4時間、映画館の椅子に座り続け、眼前の映像を凝視するということはそれだけで「時計じかけのオレンジ」の矯正プログラム並みに途方もない激務だ。もしこれがタルコフスキーの作品なら、その尺を聞いただけで絶望感に苛まれるだろう。

ところが、この「旅芸人の記録」はその尺の長さを苦痛には感じない。

物語の展開は決して派手ではなく、むしろ淡々と、どちらかというとゆったりとしたテンポで進む。時代も戦時を描いてはいるものの、派手な戦闘シーンが展開されるわけでもない。カット割も殆どがほぼ全体を俯瞰ぎみに捉えて、地味。ワンシーン・ワンカットを多用した長回しの連続。各々の登場人物もアップで捉えられることが少なく、ともすると誰が誰だか印象が薄くなってしまう。

なのに、不思議と「飽きる」ことがない。抑えた演出や長回しはリアリズムの希求であり、「リアル」であることが観ている側の眼を画面に惹き込ませてゆく。

ただ、第二次世界大戦前後のギリシャの歴史や、モチーフとなっているギリシャ神話の知識が無いと、この映画の魅力を本当に愉しむことはできないだろう。観賞前に「ギリシャ神話の基礎知識」くらいは予習しておくことが必修項目。

それにしても、初公開は東京・岩波ホールとは…あんなに座り心地の悪い劇場で4時間とは、さぞ苦痛だったことだろうな…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

砂の器

[1974年・監督/野村芳太郎■おすすめ度★★★★★ 観ておくべき度★★★★★ 思い入れ度★★★★]

砂の器 デジタルリマスター版 たとえばその人物が超一流の存在ではなくても、時として超一流さえも凌駕してしまうものを創造してしまうときがある。時代やその人物の才能の成熟具合、周囲の環境、などによって。

まさにそれは奇跡の瞬間が生んだ、奇跡の作品となる。

申し訳ないが、野村芳太郎は超一流の監督であるとは云えない。黒澤明や小津安二郎と比べればどうしても一ランクは下がってしまうだろう。(誤解のないよう断っておくが、野村芳太郎はマイ・フェイバリット監督の一人である)

だが、そんな野村が黒澤や小津をも越えてしまった「奇跡の作品」が本作だ。脚本・橋本忍、音楽・芥川也寸志、原作は松本清張。これらの才能が100%の力を発揮し融合したとき、300%にも500%にもなる完璧なものを創造しえた。

映画冒頭からまったくの暗中模索から導入される物語は、進むにつれて時としてムダ足を踏みつつ徐々に真実に近づいてゆく。そして終盤、芥川の交響曲を伴い丹波哲郎・加藤剛・加藤嘉の3つのシークエンスが同時進行しつつクライマックスを迎える。それはあたかも映像のアンサンブルのようにそれぞれの主題がからみ合い、見事なほどのカタルシスにまで到達する。

映画館で上映されるたび、あちこちですすり泣く音が暗い館内に響かないときはない。

考えてみれば、この3シークエンスが同時に進行しているはずがないのだ。だが映画とは時刻表に従って順列するのではなく、編集によって時空を超え感情の昂ぶりを表出させることなのだ。本作はこれを最高の形で見せてくれる。

世界では黒澤・小津・溝口などの作品のほうが上位ランクにくるだろう。日本映画の最高峰なら断然「七人の侍」と答える。

だが、ボクにとって日本映画のオール・タイム・ベストはこの「砂の器」と小林正樹監督の「人間の條件」である。

本編で使用された芥川也寸志の組曲「宿命」は、日本映画史上屈指の名曲だ。

一生のうち、必ず観ておかなければいけない一作。

砂の器 デジタルリマスター版
B000ALVX3C
松本清張 野村芳太郎 丹波哲郎
Amazonで詳しく見る

by G-Tools
砂の器 サウンドトラックより ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」
B00005FJR7
サントラ 東京交響楽団 菅野光亮
Amazonで詳しく見る

by G-Tools

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 7日 (月)

下妻物語

[2005年・監督/中島哲也■おすすめ度★★★★★ 観ておくべき度★★★ 思い入れ度★★★★]

下妻物語 スペシャル・エディション 〈2枚組〉 キッチュで軽やか。だけど、そんな見てくれ以上に、以外と骨太なお話だったりする映画。

これは「ルール」についての物語。

パチンコ屋で阿部サダヲ扮する「一角獣」が言う。「それがここのルールってもんだろ?」
そう、パチンコ屋にはパチンコ屋のルールがある。
下妻という土地には下妻のルール。「服はジャスコで買う」。

主人公のひとり、イチゴの属するヤンキーレディース集団も、やはりルールがある。仕事、土地、家族、団体…人間が共同体を営む以上、あらゆる場所にはその集団ごとのルール=規則が形成され、人々はそれを遵守することによって所属意識を持ち、「何かに属している」という安心感を得ているのだ。
桃子の大好きな代官山という土地にも、そこを訪れる人たちの着る「ファッション」を統一するということで暗黙のルールを作っている。それはイチゴのそれとは明らかに異質のもの。服装=ユニフォームとは、所属を明確にするための極めて簡易なアイコン。だからイチゴたちヤンキーはお揃いの特攻服を纏う。

桃子にも桃子独自の「ルール」がある。ロリータというルール、すべてに対し距離を置くというルール。彼女は自分でそれを作り遵守して過ごすことで、他の共同体には所属しないというスタンスを築いている。
「何ものにも属さない」ということはノー・ルールではなく、他の独自のルールを築きその下に生きていくということなのだ。
だがそんな桃子だって仕事を得れば「納期」というその仕事のルールには従わねばならないのだが。
共同体の中で、そういったルールを守って生きてさえいれば、社会的な地位と安寧な日々は保障されているのだ。

けれどこんな「ルール」だらけの中で、桃子もイチゴも、いったいそのルールを破ってまでも守らねばならない、もっと大切なものは何なのか…それがこの映画で伝えたいことなのだろう、と私は思う。

基本的にはティーンズが中心読者の小説が原作のせいもあるせいか多少はプロットの甘い部分もあっても、単なるキャッチーな泡沫作ではない。

「下妻物語」は、紛ぎれもなき傑作である。

下妻物語 スペシャル・エディション 〈2枚組〉
B0001M3XHO
嶽本野ばら 中島哲也 深田恭子
Amazonで詳しく見る

by G-Tools
下妻物語 スタンダード・エディション
B0002X7IXC
嶽本野ばら 中島哲也 深田恭子
Amazonで詳しく見る

by G-Tools

| | コメント (0) | トラックバック (0)

復讐するは我にあり

[1979年・監督/今村昌平■おすすめ度★★★★ 観ておくべき度★★★★★ 思い入れ度★★★]

復讐するは我にあり デジタルリマスター版 今村昌平監督といえばカンヌを獲った「楢山節考」や「うなぎ」となるのだろうが、昔から同監督の作品を観ていたものにとってはそれよりもこの「復讐するは我にあり」を推す人も多い。

ということでずっと観たかったのだが、何故か機会を逃しつづけとうとう四半世紀、25年を経てようやく池袋新文芸坐にて観賞を実現した。
噂に違わず本作は今村監督の最もエネルギッシュな頃の一本。「楢山節考」よりもこちらのほうが『すげー作品』だった。

もちろん本作は実際の連続殺人事件を題材にしているのだけれど、本来なら(おそらく松本清張あたりなら)説明するであろう「殺人の動機」やそこに至った「理由」は語っていない。それはあたかも深作欣二が「仁義の墓場」で主人公の心理を一切理解しようとせず拒絶した、というのとは異質のもので、今村監督は殺人という主人公の行為を、食や排泄といった生や、性行為、死などとほぼ同質に描いてるんじゃあないだろうか。今村監督らしくすべてはエネルギッシュに描くけれど、どこかで冷静に見つめているように感じる。

主人公・榎津巌はキリシタンだが、神さえも存在しない。すべてが並列な世界では、超越者は不要だからだ。だから神にすがることもなく主人公は死を受け容れる。行為には報いをもって償わねばならないから。そのあとは、ただ「無」に帰すだけなのだ。

ところで作品中、池袋の映画館に入るシーンがあるのだけれど、どっかで見覚えがあると思ったらナンとそこは昔の文芸坐!
かつて中学・高校・大学時代に足繁く通った、ぷぅんとトイレの芳香剤の匂い漂うあの小屋ではないですか。
撮影された79年頃というと、たしか入場料4~500円くらいだっただろうか。最初に通い始めた頃は300円、それで二本観れたのだからいい映画館、いい時代でした。
それを建てかえられた新文芸坐で観る、というのも何やら感慨深いもの。偶然の成り行きとは云え、思わぬ想い出に浸ってしまった。

今村作品にはあまり評価も良くなかった「ええじゃないか」などもあるが、今改めて観るときっともっと違った印象を持つのだろうか。

復讐するは我にあり デジタルリマスター版
B0001FAFA4
馬場当 今村昌平 緒方拳
Amazonで詳しく見る

by G-Tools

| | コメント (1) | トラックバック (1)